自戒のススメ

2005年7月25日 読書
推敲をしろ>明日と、今日以前の(いくつかの)私へ
 
 
 
推敲をしない文章は、文章ではない。少なくとも私の場合は。

文章の書き方にも人それぞれスタイルってものがある。
書き上げたら全く見直さない、あるいは見直す必要が無い人(実在はするらしい)だっているだろうし、いくら手直しをしても納得のいくものが出来上がらず、結局は数十回数百回の推敲を重ねて作品を完成させる人、あるいはある所で妥協する人、さらには少し前の推敲前の文章に立ち戻る人、推敲すること自体が創作活動の一部になっている人だって少なくないだろう。

私もその、推敲すること自体が創作活動の一部になっている人間である。

出だし、主義主張、結末を考える時間を除けば、むしろ推敲をしている時間が、文章を創作する時間のうちではもっとも楽しい時間だ。
それは要するにあら捜しのようなものなのである。見つかると嬉しい(性格が悪いだけでもある)。そして直す。ほっとする。
では何故ほっとするのか。簡単だ。他人にミスを曝け出すところを未然に防いだからだ。

そもそも文章を書くというとき。それを公表、もしくは他者に読まれることを想定するというときは、読み手に何らかの影響、或いは、ぼんやりとでも良いから、何かのきっかけを与えるように立ち振る舞うべきだと私は思っている。
もしもその文章が自分の欲求を満たすためだけに書かれたものであるのならば、それの読み手は(公表されていようがいまいが常に)自分だけなのだから、自分が満足するように書きさえすればよい。
だが、そうでない、頭の片隅にでも良いが、他人に見られるという意識が少しでもあるのであるのであれば、そのときは、それ相応の覚悟をもって文章を書くべきだ。

覚悟とは即ち、読まれ、読み取られる覚悟に他ならない。

文章によって著者の人となり、主張を読み取ろうと読者は、物を書く人にとっては最高のお客様であると同時に、最強の敵にもなりうる。お客様は厳しい目で品定めをする。お眼鏡に適わなければ今後お客様にさえなってはくれないのだ(流される噂も含む)。
そのときに、主義主張の無い文章、もうちょっと狭めれば伝達する目的の無い文章を読まされる事は非常に辛い作業だ。よほどの文章的魅力、構想力などが無ければ、それはお眼鏡に適わない致命的な理由になりうる。
貴重な時間をさいて自著を読んでもらったのだ。ならば楽しんでお帰りいただく事は当主(著者)の務めの一つではないだろうか。

なお、もしもそれが読み手にとって、例えば笑いを誘う文章であるならば(笑える、楽しいという定義は人によってまちまちだが、通俗娯楽はきっと存在すると思う)読み手はそれを選択して読み、そして笑うという目的を持ってくれる。たとえそれが著者の意図しない面白さだとしても、面白いと思ってもらえたことには非常に高い、かけがえの無い価値があるものなのだとも私は信じている。
関連して、面白いとは実に様々な意味を含んでいる。これは蛇足かもしれないが、面白さというものは感じ取る人によって様々な形を取るからである(とはいえ、やはり私は通俗娯ry)。
 
 
つまり文章にして公表したものは、読まれ、読み取られるのである。そんなことは当たり前のことではあるのだが、これらは自戒なのだ。自戒ではあるが、自分だけに向けて発信したものでもない自戒だ。だから慎重に言葉を選んで書いたつもりだし、推敲だってした。これが最善であるかどうかなんて、判りたいけれど判らないものだ。一生かけても判らないかもしれない。その分、一生涯かけても付き合っていたい。

読み手は手強い。が(こちらが勝手に思える分には常に)好敵手だ。

ならば最高の文章でもって、読者に応えるのは書き手の責任の一部だろう。

だから私は推敲する。しなければならないんだなあ、これが。
 
 
 
   
娯楽ってのは何だかんだといっても、そういうもん。

やってて楽しいからだよねえ。

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