じゃあさ、その「何か」に意思を送っている「何か」が、実は私だっていう可能性は?

否定はできない。

ふーん。でもさ、だとしたらソレ、単に回りくどいことしてるだけだよね。

…まあ否定ができないだけだから、なんとも言えんが、なるほど、まあそうだな。その考え方ならば確かに、こういったような考え方を「否定」する幾つかの可能性の内のひとつに、あるいはなることができるのかもしれない。

だから、そういうのが回りくどいんだってば。
 
 
音楽が聴こえる。
私にとってはたいそう耳易く、この上なく聴こえがよいとされている音楽。
私はこの音楽を聴いているときに心地が悪くなったことは、一度であろうとも無い。それは他のすべての音楽に当てはまる性質ではなく、しかしどんな音楽もこの音楽には敵わない。ちょっとした直感に過ぎないのだが、なぜだかそれは不変の約束のようなものに思えてならない。
そんなとき私は、この音楽はきっと私にとって一生ものなのだろうと、いつもそのような確信を抱く。

そういう風に出来上がっていたのか、そういう風に出来上げたのか。それは私には判らない。

音とは空気の振動である。どうしようともそれは換わらない。
しかし音楽とは、何かしらに聴き取られて初めて音楽になる。それで心地よいと思われたり、不快だと思われたり、単純なものから複雑なものまで、さまざまな感情を持って音楽は迎えられ、そうされて初めて音楽は音楽として認識される。

私は今聴いているこの音楽を素晴らしいものだと感じている。

何パターンもの音の波長の組み合わせがある中で、私にはこのパターンが最も当てはまりが良かったと、そういうことなのだろう。

不思議だ。

こんなにも心安らかで穏やかで、
ときには感情を高ぶらせてまで、
私はこの音楽に聴き入っていると言うのに、

世界中のどこを探しても

この快感が見当たらない。

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